昭和40年頃

塩新田は、その名称のとおり江戸時代になって塩田のために開発された集落です。古文書によると、寛永2年(1625)に開発されたとなっているので400年の歴史を有しています。 じ来、江戸末期まで一時期幕府領になったものの遠州浜松藩に属し、その要衝として、製塩、漁業を中心に発展してきました。弘化3年(1846)に浜松藩主水野氏の出羽山形転封に伴い奥州白河藩領となり、明治維新を迎えています。 その後、明治22年(1889)の町村制施行で於保村塩新田となり、於保村の時代が続きましたが、昭和32年(1957)の市町村合併で福田町に、さらに先の平成の大合併により福田町は磐田市に吸収され、現在は磐田市塩新田となっています。
塩新田の歴史の細部は、別添「塩新田の歴史と風土(PDF)」をご覧下さい。

年  表

1625年  大之郷村により分郷として開発
1702年  石高6石4斗8升7合
1707年  宝永大地震
1712年  朝鮮使節通行で天竜川舟橋用役を勤める。
1714年  前浜の所有権紛争決着、塩新田所有となる。
1718年  戸数33、村人104人
1776年  塩運上廃止
1826年  幕府領となる。
1830年  浜松藩領に復帰
1846年  浜松藩領から白河藩領となる。
1854年  安政大地震
1869年  廃藩置県により浜松県になる。
1876年  浜松県は静岡県に編入される。
1889年  町村制施行で於保村が成立、於保村塩新田となる。
1957年  於保村は磐田市と福田町に分離、福田町塩新田となる。
2005年  福田町は磐田市に合併、磐田市塩新田となる。
浜松藩と塩新田

明治中期 国家の安定と人口増大に伴い江戸時代初期には多くの新田開発が行われた。塩新田は、江戸初期に浜松藩領の大之郷の分郷として開発されたが、塩田開発のほか沿岸漁業基地の確保にもその目的があったものと思われる。また、塩新田の周囲は幕府領や旗本領が多く、さらに今の浦川の東側には、横須賀藩、掛川藩の領地が多く存在していた。 このため、大之郷だけでなく、浜松藩にとっても塩新田の開発及び支配は、塩田、漁業のみならず水運及び国境の拠点確保に大きな意義があり、その開発が促進されたと考えるのが妥当である。つまり、塩新田の開発は大之郷の村請新田となっているが、実際には藩営新田の色彩が濃かったのではなかろうか。
こうして開発された塩新田は、以後隣の三ツ合新田とともに浜松藩の飛び地として製塩、漁業等が行われていたのであるが。その後、宝永大地震(1707)により横須賀湊が使用できなくなると福田湊が開発され、福田から三ツ合新田・塩新田にかけての仿僧川が年貢米や各種の産物を運ぶ船の繋船地として賑わうようになった。
その頃の古文書によると、塩新田について「古来元船(大きな荷船)村申由有之」と記されており、さらに塩新田は「浜松御在城之砌御船御作事御用相勤め」高掛り諸役が免除されていたとの記載もあり、浜松藩の船舶関係の仕事も実施していたことがうかがえる。
なお、前浜の所有権が周囲の村との紛争の種になっていたが、正徳4年(1714)の裁許により塩新田の所有浜であることが認められており、推測ではあるが、この裁許に関しては浜松藩の尽力があったのではなかろうか。
要するに、当時僅か30戸の小村であるが、その地理的な重要性及び塩や魚等の産物並びに優れた船舶関連技能が浜松藩における塩新田の価値を高め、また塩新田も浜松藩の要望に応えるとともに、何かにつけて浜松藩の支援を得ていたようである。

寺 谷 用 水

寺谷用水 徳川家康は遠江の国を平定すると、後に中泉代官になる伊奈備前守忠次に天竜川の治水と開発を命じた。備前守は、天竜川の支流を利用して井堀を開削しようとし、それを当時家康の家来として賀茂村に居を構えていた平野重定をしてその任にあたらせた。 2年後の1590年に12kmもの水路の開削に成功し、灌漑面積は73ヶ村、約1,688haに及んだという。その後、先人達が改良に改良を重ねた結果、現在では、2,100町歩が恩恵を受けているといわれている。船明ダムがら取水された用水は 30km余を流れて最後に塩新田の田畑を潤して仿僧川に注いでいるのである。まさしく地域の田畑はこの寺谷用水により命を与えられており、その恩恵は計り知れない。 江戸時代から続いている塩新田の秋葉講では、この用水を切り開いた平野重定の威徳を偲び「南無、水神平野重定公」と謡っている。

地 曳 網

地曳き網 享保3年(1718)に書かれた「川東三拾弐ケ村村調書」には、塩新田に小物成(雑税)として地曳網運上があることから、この頃既に地曳網が行われていたことになる。それから江戸後期、明治、そして大正と、地曳網漁を中心とした漁業が塩新田の生活を支えてきたのである。 地曳網は「浜船講」と呼ばれた網組が集落ごとに組織されていた。塩新田では、在住の各戸が株を持ち講を運営していた。浜には見張り小屋や網舟等が置かれて年間5、60回の漁が行われ、最盛期には塩新田中が干したイワシに埋まっていたという。 これら興隆を極めた地曳網漁も昭和13年の豊漁の後は魚群が沖を通るようになり、さらに海岸付近の汚染も進み次第に廃れていった。尤も塩新田では昭和20年代後半までは地曳網が行われていた。

お伊勢参り

浜船 塩新田から隣村に嫁ぎ、御年101歳になる大庭さんの話を聞く機会を得たが、これが凄い。いつから始まったか不明であるが、塩新田では地曳網に使う浜船と呼ばれる全長約10m、全幅約2.5m、型深約1.5m、5丁艪の和船で、毎年4月ころに伊勢参りをしていた。 当時15歳だった大庭さんは近所の娘さんと二人で参加したという。行く日は船頭が風の具合をみて決め、実施が決心されると触れが回り、参加者は支度を調えて海岸に集まり船に乗り込んで出発した。船には20人以上が乗っており、始めは帆を張って航行していたが、 白須賀を過ぎると風がなくなったので、以後は艪を漕いで進んだ。伊勢湾に入ると夜になり方角を見失い、苦労して伊勢湾奥の二軒茶屋に着いたという。 通常ならば日が暮れる前に着くので、予約しておいた旅館では遭難したのではと大騒ぎになっていたという。船頭始め、男達は必死であり邪魔になってはいけないと船底で小さくなっていたが、伊勢に着いて、内宮、外宮や伊勢の街を見て回り、あんなに楽しかったことはなかったとのことである。 大庭さんの話によると、昔から数年に一度は讃岐の金比羅様にもそのようにして安全祈願に行っていたらしい。そういえば、今でも多くの家に明治時代の金比羅様の大きな木札が大切に保管されている。
当時の人々は、塩新田に限らず日本人総てがそうであったが、今日では無謀や不可能と思われることを平気で行うほど強靱な精神力と自然に対する適応力を有していたのである。

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明治中期
昭和40年頃


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旧中島橋

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脱穀
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